2020

誰も話題にしないのだが、実に美しい年である。

“2020”

シンメトリーで、シンプルで、なにかの暗号か呪文みたいな神秘ささえ感じる。

本当はオリンピックがあるはずだった、年。

祭事の一切が見送られる一方、澱のように永い時代潜んできた問題が噴き出すような出来事が世界各地で起きている。当然たまたまではあるのだが、こうもキリの良い年に様々な変化が起きていると、なにか遥か昔、創世の頃に既にプログラミングされていたのではないかと思ってしまう。

 

アメリカで起きている大規模なプロテストを見て、野蛮だ、とか、恐い、と感じる人もいると思う。誰だって、平和に、お気楽に日々を生きられる方がいい。好き好んで争いを起こす人の方が少数派だ(と、信じている)。

私もずっとそうだった。文句や主張ははしたない、事を荒立てるなんてただの迷惑だと思ってきた。だが、昨年からずっと理不尽な上司に対して闘ってきた今、その決断は良かったと思っている。もちろん、不当や過剰、無駄な争いは不要だ。だが、しかし、自分が正しいと信じるもののために闘うことは、必要なのだ。

私が一番良かったと思っているのは、結果処遇が改善されたり、関係性を断てたことよりも、周りの信頼を得られたことだ。

正当に、冷静に、ファクトに基づきプロテストすること。主張と言動が一貫しており、一歩もひかないこと。キツい女だと敬遠された面もあるかもしれないが、圧倒的に、信頼してもらえる方が大きかった。

闘い方はそれぞれで、今アメリカで起きていることもそのひとつだ。ただ、これ以上断絶が深まること、人命が損なわれることが無いよう祈っている。祈るだけではなく、本当は、共に闘うべきなのだ。祈りを叶えるために。それは学びだったり、共感だったり、自己を改めることだったり、色々な形がありえると思う。

 

次にシンメトリーになるのは、2121。約100年後、2020はどんな年だと語られるのだろうか。

物語な人

またまた間が空いてしまった。今の未曾有な状況で感じていること、考えていることを残しておこうと思って再び書き始めたところもあるのだが、よく考えれば「未曾有な」事態は思ったよりも起きているのだ。9.11も3.11も、阪神大震災も、バブル崩壊リーマンショックも、この30年の間に起きている。だから、変わらない日常というのはそもそも幻想で、予想外の事態が常に起こり(うる)、変わり続けるのが世界と認識した方が良い。

 

読み手を誰ひとり想定せずに書いているこのブログだが、強いて言えば「私」という読者のために書いている。私はどうやら私の書いた文章が好きなようで、気まぐれにしか更新しないこのブログを消さないのもそれが理由だ。

よく本を読む子供だった。今でも活字中毒のきらいはある。このステイホーム期間に積ん読本をなくすのが目標だが、順次増えていくので達成は難しそうだ。

「人はなぜ物語を必要とするのか」と疑問に思ったことがある。たとえば、神話は歴史の記録として受け継がれた一面があるが、記録であるならば、データで充分なはずだ。年表なり家系図なり、事実をまとめていれば機能は果たせる。なのになぜ「無駄な」物語を持たせたのか。

その疑問は、「人間は共感や感情を伴うと記憶が強化される」という事象を知り、ひとまずの解決を得ている。確かに、人伝に受け継がれていくには強い興味や印象が必要となる。そのために物語というパワーが使われたのだろう。

どうやら自分は、そのパワーに惹かれるセンサーが強いらしい。

前々から、興味がある分野の人であるにもかかわらず、惹かれる人とそうではない人がいるのは何故だろうと思っていた。好き嫌いとか馬が合う合わないとか、要はそういうことなのだが、その分水嶺はどこなのか、というポイントが不思議だった(我ながら厄介な性分である)。

その答えに、先日はたと気づいた。「物語があるかないか」だった。波乱万丈な人生とか、読書家であるということではない。その人の根っこに、脈々と「物語」が息づいているかどうかなのだ。そういう人が生み出すものには、すべからく意図無くして物語を感じられる。

この「物語」は、岡潔言うところの「情緒」と言い換えてもいいかもしれない。

ただし、その魅力を遺憾無く発揮してもらうには条件があって、同時にしっかりとした論理の力が必要となる。

長々と書いてきたが、要するに感覚と思考の両輪がバランスよく働いているというのが、私のツボらしい。

政治的発言

とあるミュージシャンがライブハウスの窮状と政府の失策についてツィートしたところ、「曲は好きなのに政治的発言はガッカリする、やめてほしい」とリプがついたという一件が話題になっている。

同じケースはちょくちょく見てきた。作品や作家のイメージが壊れるから、政治的発言はやめてくれ/別アカウントにしてくれ、というもの。

なんでかな、と思う。

このケースが日本特有かはわからないのだが、日本社会に傾向が強い自他境界の緩さ、人権意識の未熟さ、は関係してそうだ。

あとは、もちろん政治への圧倒的関心の低さ。逃避、なのかなーと思う。なんだかよくわからないけど、日本がたくさん課題は抱えてて、未来はそう気楽でもなさそうなんだけど、でも今日明日とりあえず生きていけるし、それでいっか、みたいな。面倒や苦労はできるだけ先送りして、今は楽しいんだから大丈夫て信じたいのに、現実とか突きつけないでよ、て心理なのかなーと思う。

やたら政治を難しかったり高尚に扱う風潮、逆に汚いダークな世界だと刷り込む言説、あとカッコイイ政治家がマジで少ない(これかなり致命的)ていうのも、当然影響してる。

あと、フツーにみんな関心持つだけのエネルギーが残ってないんだよね。今回の緊急事態宣言で通勤無くなっただけでみんな気づいたんじゃないかなぁ。働きに行くために多大なエネルギーを浪費した上での長時間労働。そりゃカラッカラになるわ。

週5日8時間労働は働きすぎ、て感覚が共有されるといいな。

希望となるもの

とはいえ、不安や恐怖がないわけではない。

自粛を始めた頃は、一晩中ニュースやネットを読み漁り、明け方ごろ眠るということも度々あった。自分の中の不安定さからか、変わらず日常を営もうとする他者に謂われもない苛立ちや疲れを覚えたりもした。

そのうち、だんだんと自分が接して落ち着くものがなにかわかってきた。

どうやら私は、創造性に触れると励まされ、回復するらしい。

誰かが愛や欲求のままに創り出した作品(ジャンルは問わない)、何かを解決したくて編み出したアイデアや技術、チャレンジ。

なにかを生み出す力は、未来に繋がる希望となる。

希望が、最高の栄養剤だ。

ほぼ1年ぶり

なんとなく始めて、なんとなく開かなくなって、でもなんとなく残したままだったブログ。

またなんとなく書いてみようかな、という気分になった。まぁきっと、stay homeで時間がある(気分)というのが一因だろう。

いち早く在宅を徹底したので、もう2ヶ月オフィスに行っていない。会社てなんだっけ…という脳ミソになってきているし、他者との様々なコミュニケーションは圧倒的に減っている。

それが不安や不快かというと、そうでもない。逆に減らしていこうという気持ちがある。

買い物くらいしか外に出ない生活を続けていると、「外出」という行為だけでどれだけ自分か刺激(情報)を受けていたのかということがよくわかる。たとえそれがただの移動だったとしても。

以前フィリピンに1ヶ月滞在して帰国した夜、成田からの電車移動の最中気分が悪くなったことを思い出した。

人にはそれぞれ適切な情報のタイプやキャパシティがあって、きっと自分はずっとキャパ以上の刺激を受け続けてたんだな、と、2ヶ月前に比べて格段に落ちた物欲やら食欲を通じて体感した。講座やらなんやら色々手を出していたが、あれも何に駈られていたのやら。

他者との繋がりも、薄情と思われるのを覚悟で言えば、そこまで重要なのか、という気持ちになっている。もちろん、人は一人では生きられないから、共感や共生はとても大切なことだけれど、オンラインで飲み会をするほど私にとっては密でなくてもいいかな、と思う。

先行き不透明感が増しているここしばらく、オンラインでのコミュニティ作りが盛んで、特定のコミュニティに属することがニガテな性質の私にとっては、息苦しい局面もちょいちょいあった。

なので、体よくほったらかしにしてもらえる今の状況は、悪いばかりでもない。SNSもしばらく、友人知人の投稿は制限して読んでいる。

もともと昨年あたりから色々絞り込む流れにあったので、ここにきて一層削ぎ落とす段階なのかな、と思っている。

自分に本当に必要なもの、愛するもの。

哲学者ティモシー・モートンによれば、新型コロナという「災厄」に対して、今人類はsurvivalかaliveかという二元化した世界観の中で極限にsurvivalに舵を切っている。対症療法しかない以上、ありとあらゆる手を使って生き残る道を探すしかない。それは、種としては正しい本能だ。いつになるかわからないが、そのsurvivalに克てた時、自分がaliveであるために必要なものは何か。外部からの刺激を遮断して、考えてみている。そして、それはそう多くない気がしている。

 

ソリューションを生み出すのは何だ

さて、何なんだろう。

昨日、上司から「キミに代わる人材を育ててくれ」と言われて、あれこれ考えてる最大のボトルネックのひとつがこれ。

批評できる人はいくらでもいるんだ。でも、解決/改善できるソリューションが提案できる人はそういない。そこまでできる人材て、どう育てるの?

そもそも、私自身育てられたというより、自分がそれを見つける、創っていく過程が楽しくて、追いかけてたら出てくるだけなんだ。だから余計にわからない…うーむ…

時間は平等

あることがきっかけで、改めてふと気づいたのだけど、

時間は皆平等

なんだよね。

そりゃ確かに、感覚で過ぎる速さや密度はちがうけど、1日24時間1年365日はほぼ平等。

その中でいくらできることしたいことが違っても、キャップ自体は変わらない。だから、おとなもこどもも、おとこもおんなも、上司も部下も、ママパパもシングルも、にほんもがいこくも、みーんな、平等。

それなら、分け合ったり融通し合ったりするためにも、フラットに風通しよく、言い合わないとねー。時間の貴重さは平等だが、ニーズやプライオリティは多様。そこをうまーくはめていくには、まずそれ。

というわけで、遅刻はできるだけ減らそう(→そこか笑)