物語な人

またまた間が空いてしまった。今の未曾有な状況で感じていること、考えていることを残しておこうと思って再び書き始めたところもあるのだが、よく考えれば「未曾有な」事態は思ったよりも起きているのだ。9.11も3.11も、阪神大震災も、バブル崩壊リーマンショックも、この30年の間に起きている。だから、変わらない日常というのはそもそも幻想で、予想外の事態が常に起こり(うる)、変わり続けるのが世界と認識した方が良い。

 

読み手を誰ひとり想定せずに書いているこのブログだが、強いて言えば「私」という読者のために書いている。私はどうやら私の書いた文章が好きなようで、気まぐれにしか更新しないこのブログを消さないのもそれが理由だ。

よく本を読む子供だった。今でも活字中毒のきらいはある。このステイホーム期間に積ん読本をなくすのが目標だが、順次増えていくので達成は難しそうだ。

「人はなぜ物語を必要とするのか」と疑問に思ったことがある。たとえば、神話は歴史の記録として受け継がれた一面があるが、記録であるならば、データで充分なはずだ。年表なり家系図なり、事実をまとめていれば機能は果たせる。なのになぜ「無駄な」物語を持たせたのか。

その疑問は、「人間は共感や感情を伴うと記憶が強化される」という事象を知り、ひとまずの解決を得ている。確かに、人伝に受け継がれていくには強い興味や印象が必要となる。そのために物語というパワーが使われたのだろう。

どうやら自分は、そのパワーに惹かれるセンサーが強いらしい。

前々から、興味がある分野の人であるにもかかわらず、惹かれる人とそうではない人がいるのは何故だろうと思っていた。好き嫌いとか馬が合う合わないとか、要はそういうことなのだが、その分水嶺はどこなのか、というポイントが不思議だった(我ながら厄介な性分である)。

その答えに、先日はたと気づいた。「物語があるかないか」だった。波乱万丈な人生とか、読書家であるということではない。その人の根っこに、脈々と「物語」が息づいているかどうかなのだ。そういう人が生み出すものには、すべからく意図無くして物語を感じられる。

この「物語」は、岡潔言うところの「情緒」と言い換えてもいいかもしれない。

ただし、その魅力を遺憾無く発揮してもらうには条件があって、同時にしっかりとした論理の力が必要となる。

長々と書いてきたが、要するに感覚と思考の両輪がバランスよく働いているというのが、私のツボらしい。