ほぼ1年ぶり

なんとなく始めて、なんとなく開かなくなって、でもなんとなく残したままだったブログ。

またなんとなく書いてみようかな、という気分になった。まぁきっと、stay homeで時間がある(気分)というのが一因だろう。

いち早く在宅を徹底したので、もう2ヶ月オフィスに行っていない。会社てなんだっけ…という脳ミソになってきているし、他者との様々なコミュニケーションは圧倒的に減っている。

それが不安や不快かというと、そうでもない。逆に減らしていこうという気持ちがある。

買い物くらいしか外に出ない生活を続けていると、「外出」という行為だけでどれだけ自分か刺激(情報)を受けていたのかということがよくわかる。たとえそれがただの移動だったとしても。

以前フィリピンに1ヶ月滞在して帰国した夜、成田からの電車移動の最中気分が悪くなったことを思い出した。

人にはそれぞれ適切な情報のタイプやキャパシティがあって、きっと自分はずっとキャパ以上の刺激を受け続けてたんだな、と、2ヶ月前に比べて格段に落ちた物欲やら食欲を通じて体感した。講座やらなんやら色々手を出していたが、あれも何に駈られていたのやら。

他者との繋がりも、薄情と思われるのを覚悟で言えば、そこまで重要なのか、という気持ちになっている。もちろん、人は一人では生きられないから、共感や共生はとても大切なことだけれど、オンラインで飲み会をするほど私にとっては密でなくてもいいかな、と思う。

先行き不透明感が増しているここしばらく、オンラインでのコミュニティ作りが盛んで、特定のコミュニティに属することがニガテな性質の私にとっては、息苦しい局面もちょいちょいあった。

なので、体よくほったらかしにしてもらえる今の状況は、悪いばかりでもない。SNSもしばらく、友人知人の投稿は制限して読んでいる。

もともと昨年あたりから色々絞り込む流れにあったので、ここにきて一層削ぎ落とす段階なのかな、と思っている。

自分に本当に必要なもの、愛するもの。

哲学者ティモシー・モートンによれば、新型コロナという「災厄」に対して、今人類はsurvivalかaliveかという二元化した世界観の中で極限にsurvivalに舵を切っている。対症療法しかない以上、ありとあらゆる手を使って生き残る道を探すしかない。それは、種としては正しい本能だ。いつになるかわからないが、そのsurvivalに克てた時、自分がaliveであるために必要なものは何か。外部からの刺激を遮断して、考えてみている。そして、それはそう多くない気がしている。