死ぬことは生きること

さて。あと1週間ほどで日本です。梅雨か…(憂鬱)

今回のオーストラリア生活でクリアになったことのひとつが今日のタイトルです。おおらかなオージーでっていうのが意外っちゃ意外ですかね。

きっかけはたまたま見たTVCMでした。たぶん病院のCMだと思います。その中で、「ほんとは自宅の方が快適なのに長時間ここに滞在する人のために、自宅以上の素晴らしさを提供します」みたいなことを言ってたんですね。それを聞いて、「あーなるほどー」と思って、「じゃあ自分が病院か施設で死ぬ場合、どんなとこだったらいいだろう?」と考えるようになりました。

今年の1月に祖母が施設で亡くなったことも影響してると思います(私はちょうどフィリピンにいたので帰国後にすべて知らされたのですが)。あとは、年齢的にも自分の死を起点に現在を考えることに無理がなくなったというのもあります。

もちろん、どんな形でいつ死ぬかわからないのは変わりません。その点では可能性が無限であることは同じなのですが、「こう死ぬためにはどうすればいいのか」という視点のほうが、できることや足りないこと、課題や優先順位がスッキリしたんですね、私の場合は。ネガがポジに変わるというのとも違う、終わりから生まれる豊かさ、、、という感じでしょうか。うーむ、難しい。

あと、自分が望む死のあり方が、時間とともに変わっていて面白かったです。20代のころは、キレイさっぱり跡形もなく消えたかったですね。自分のものはトランクひとつだけでホテルで独り暮らして、気づいたら死んでた、みたいな。今考えるときに、とりあえず「ひとり」というイメージは無いので、なかなか自分で自分が興味深いです。

親にも「どう死にたいか」きいてみたいと思います。